原発震災からの半年間で分かったこと

 9月11日で原発震災から半年となる。この日にブログを書くつもりだったが、疲労の為に書きそびれてしまった。

 この半年間で浮かび上がってきたこの国の陰の部分、それは原発問題じたいはもちろんであるが、もっと大局的に見ると、この問題を通して明らかになった国家システムと政治システムの決定的不良であるといえる。それら、非常事態対応の遅滞、情報の隠蔽、言論の誘導と統制、法律遵守の放棄、公務の不履行などは3.11以前から見られた国の諸病ではあるが、原発震災を機により一層その度合いが増し、矯正の効かない状態にまで堕したものであるというべきだ。さらに悪いことに、一部の国民は、政治に未だ信頼を寄せたり、あるいは、こうした状態に対して無関心を装っていたりするように見える。否、彼らは今置かれているみずからのメディア的・社会的環境の中で、彼らなりの良識を伴った直観的判断によって行動しているのみであり、悪気はないのかもしれない。ただ、少なくとも私にとってはっきりしているのは、風評被害という用語を歪曲して用い、放射性物質を拡散させた当事者を批判せずに、汚染被害地域とその周辺で産する農産物を避ける消費者を非難する人たちには、悪意とまではいかないのかもしれないが、理性的判断能力が大きく欠けていると言わざるを得ないということだ。今指摘した人たちの行動は最も象徴的な例であるが、他にも類似したお門違いの批判(非難)と権力への擦り寄りは少なからずある。このように偏向した考え方というのは、日本人に特有のメンタリティーが根底にあってこそだろうと私は推測している。もちろん、いつの時代であっても、より理性的に判断しようとする人が一方でいるものだ。実際、戦時中と比べればそのような人は増えているだろうと思っていた、そう、3.11までは。しかし、現実はそうではなく、戦時下の日本人のメンタリティーが亡霊のように復活してしまったようだ。それも、結束化を伴って。

 以前にブログでも書いたが、原発利権享受者としての原発推進派と、科学的・人道的立場に立った脱原発派が議論する前提が、崩れ去ってしまっている。原発利権を享受していない層が、原発を推進する立場にある国家システムに親和性を示すことは、国民に多大な不利益をもたらす。直接的に利権を享受していないまでも、雇用を確保してもらっており、原発不要論を性急に唱えられない層が存在するのも分かっている。だが、脱原発に舵を切っても新しい雇用があるのか、という「代案請求」は願い下げだ。京都大学小出助教の言葉を借りれば、難破しかかった船にわれわれは今乗っているのだから。・・話を戻すと、脱原発世論の形成の為には、国民が理性的判断能力を持つようにしなければならない。原発を推進する国家システムの不良性を直視するのがその前提になるが、実のところ、上に指摘したような日本人のメンタリティーの矯正法は私には分からない。このメンタリティーもまた民族性の一つであるからそっとしておけばいい、というものではない。今後起きうる新しい未曽有の国難の際に、3.11により一層明らかになった国家システムの不良の露呈と並んで、同じような錯誤が繰り返されないようにしたいとつくづく思う。

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