震災から一年の今日、考えること。


 月並みな書き出しであるが、震災からはや一年が経つ。あれ以来、生も時間が止まってしまったようにも、あるいは、生の内実を置き去りにして慌しく時間だけが過ぎ去ってしまったようにも思える。原発事故に関していえば、現場の作業員のかたがたの必死の作業にも関わらず、事故じたいの深甚さと、事故主体たる企業の日常的な技術的管理の不備とによって、収束に向けての進捗は事故以来ほとんど変わりないのが実情だ。


 それにしても原発震災は、日本人がこれまで見ないできたものを否が応でも可視化してみせたといえる。少なからぬ人が指摘しているように、これだけの原発大事故が起きて初めて、日本という国が内包してきたシステム不良が是正に向かっていくことが出来るのであるらしいことは、事実かもしれない。3.11以前の日本に戻りたい、という声がしばしば聞かれるが、プレ3.11というのは、前述したシステム不良が顕在化しないで済んでいただけの時代=世界なのである。かえすがえすも皮肉なことではあるが、文明的危機としての3.11を経ずして、システム不良が是正される時代=世界としてのポスト3.11はあり得なかったのであろう。


 しかし、システム不良を原子力行政に限ってみたところでも、本当にこれから是正は行われるのだろうか?たしかに、これまで国民のほとんどが知らずにきた原発の諸問題(原子力ムラの社会的なあり方も含め)が白日のもとに晒されたことの意味、そして、これが契機となって生まれた脱原発の動向には目を瞠るものがある(私もその当事者の一人ではあるが)。一方、原子力ムラの動向はどうかといえば、当面の原発非稼働や自然エネルギー導入の検討などの、消極的な施策は見られないでもないものの、遠く将来を見据えて原発を完全に他のエネルギーに代替するという、不可避であるべきはずの方針は全く見えてこない。そればかりか、ムラの中核的存在である当の電力会社の企業行動ならびに企業倫理は、3.11以前も以後も全く変わることなく継続され、新たな原発震災を引き起こしかねない状況にある。
 
 3.11から一年経つとはいえ、未だ冷温停止すら完了していない原子炉のゆくえも含め、これから数十年、あるいは百年以上にわたって原発の管理をしていかなれけばならない。ましてや、放射性物質の管理にいたっては数万年にわたっての管理が強いられる。それゆえ、脱原発という当然の選択に立った者は、原子力ムラと気の遠くなるような闘いを続けなければならない。もっとも、皮肉にも一年後に国内の何処かの原発が震災によりメルトダウンを起こし、三大都市圏のうちのいずれか、あるいはいくつかが永遠に非可住地域となった場合、国家機能は壊滅状態となるのであり、脱原発/原発推進も何も言っていられなくなるのかもしれないが・・


 述懐で恐縮だが、この一年間、原子力ムラへの怒りと絶望とを感じてきた。加えて昨今は、おそらくほとんどの国民が感じているであろう、ムラの「変わらなさ」を前に、遅かれ早かれこの国そのものが本当に壊滅してしまうであろうと危惧を覚える。原発と、それがもたらす放射性物質の管理に費やされるサイクルは、人間の一生よりもはるかに長い。人生なんてあっという間だ。私は、人間というものは、他者から嫌われようとも、生の不利益を被ろうとも、本当にやりたいと思えるものを信念を持って貫くことに意義があると考えている。所詮は短い一生なのであるから。原子力行政に携わるかたがたも、おそらく、信念を持って蓄財という生を貫いているのである。その意味では彼らの内面は充実しているといえるのかもしれない。しかし、平等に与えられたみずからの命を、数多の他者の命を傷つけたうえで生きることの、何たる不幸なことか。


 世界最大の地震国における地震活動期にあって、原発稼働上の安全性も倫理も保障されていない状況では、ポスト3.11はそれほど長く続かないかもしれない。それでも、投げやりにならず、原発をめぐる動きを注視していくことが肝要だ。

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