公演「三浦一壮生誕祭2022 三浦一壮+小森俊明」について

 先週の土曜日、コロナ・ピリオドにおいて初めての自主企画を終えた。欧州・中南米諸国の芸術祭に繰り返し招聘されている伝説的舞踏家、三浦一壮氏とのデュオ・セッション公演である。三浦氏の踊りを最初に拝見したのはおよそ3年前のことで、以来、その研ぎ澄まされ、アウラを放つ身体から紡ぎ出される時間を音楽とともにさせていただきたいと思い、構想を考えていた。しかし、新型コロナウィルス感染症が蔓延してしまい、実現が延び延びとなってしまっていた。それには、換気に特に留意する必要がある狭い会場で開催することを考えていたせいもある。デルタ株流行が終息して来たことを受けて、今年の5月21日を開催日と定めたものの、オミクロン株流行による開催延期の可能性も頭をしばしばよぎったものである。しかし、5月に入ってから感染者数が概ね減少傾向を見せるようになり、無事開催することが出来たことは幸せであった。また、今回の公演ではあらゆるスタッフのかたがたが極めて献身的に協力して下さり、深謝申し上げたい。

 三浦氏の踊りについては既に多くの評者が批評を行なっている。ここでは本公演について、気鋭の舞踊学者/批評家、吉田悠樹彦氏が寄せて下さった批評文を紹介しておきたい。

「三浦一壮生誕祭2022 三浦一壮+小森俊明」
現代音楽家と舞踏家による二部構成の競演が行われた。紐や藁で包まれた三浦一壮がいる。小森俊明が演奏を始めると、その空気にあわせるように赤く照明が演出をはじめる。照明は吉本大輔である。三浦は少年時代の1945年以前に朝鮮半島に生まれたことを語っていく。この私の歴史が世界の歴史へと通じるという意味でベンヤミン的な歴史の寓意といえる内容だ。小森の演奏はドラマティックな起伏も入るが、ポスト・フルクサスとしても演奏活動をしたことがあるように、戦後の現代音楽の手法を用いており、三浦が生きてきた時代を視野に入れている。
前半は演劇や前衛マイムを学んだことも感じさせる内容だ。ゆっくりと自由になった三浦は半裸で舞う。後半では帽子に和装で動き始め、 肉体派の舞踏をみせた。衣装は演劇・映画で活躍する星埜恵子による。小森の表情と視線が三浦の演技と交差し、無音だが緊張感が立ち上がる場面があった。フルクサスや戦後を経て、震災後のパフォーマンスを模索してきた小森の側から、新しい表現や理論が生まれてくることに期待がかかる。
(5月21日、シンフォニーサロン201号室)

 演奏者サイドから見えた三浦氏の踊りは、極めて厳粛かつ真摯なものであり、一瞬一瞬の身体の動きに即応してマインドフルに楽器(ピアノ)に相対し、得難い時間を経験することが出来た。一方、三浦氏からは演奏について「抑制された音 通ましい祈りの響きは私の身体を高みに連れて行ってくれました」と評して下さり、踊りとの即応性の質については安堵している。この即応性に属する表現以外においてはやり足りなかったことも少なくなく、それは今後の課題として捉えている。

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