「原発推進」は克服可能か?

 来日したドイツのメルケル首相の脱原発政策に関する発言とは対照的に、日本の首相が採る原発推進政策が際立っている。世界で最も脱原発へと舵を切らなければならない国であるはずなのに、である。脱原発を望む国民は、何かの利得を期待している訳ではなく、ひたすら原発の危険性を直視し、シヴィア・アクシデントが起きた場合の広範囲かつ長期的な被曝を避けたいとする意志によって、そうしているのである。同時に、子孫の世代の恒久的な安全を担保したいという意志も併せ持っている。それに対して、原発推進を掲げる政府は、原発が低廉かつ安定的なエネルギーであるということを強調している。しかし、言うまでもなく低廉というのは嘘であり、安定的というのは事故が起きないという前提に立っての謂いである。国民がみな知るように、原発推進の本当の目的は要するにカネである。あまつさえ、カネの為には、安全が担保されていない原発を安全であるとうそぶくことに何のためらいも無い。政府みずからが、カネの為に原発を推進します、と言う訳は無いが、そうした真意の隠蔽じたいが、前述の脱原発を望む国民の意志のありようとの非対称性をこのうえなく表している。現在、政府の意向に良い意味で真っ向から対立するがごとく、脱原発の必要性を理路整然と説いた書物が数多く出版されている。それに対して、原発推進の必要性を理路整然と説いた書物というのは存在しないようである。このこともまた、脱原発の論調と原発推進の論調のイデオロギーの非対称性と、原発推進の必要性という論理の破綻を物語るものではないか。

 今、論理の破綻と書いたが、そもそも原発推進という態度は、あらゆる次元において合理的な論理の裏付けによって存在し得ないのだと言っても良いかもしれない。ごく単純化して言えば、前述の通り、「カネ」がその態度決定にあたっての唯一の動機なのだから。カネに惑わされる人間は、そもそも理によって動いていない。3.11以後、原発反対を訴える人々はセンティメントに支配されている、と評する向きがあったが、逆に彼ら原発推進を謳う人々こそが、大いに理を欠いているのだ。カネの為なら、白いものを黒いと言うことに何のためらいも無い。この国は今、有史以来の危機に瀕している。原発推進のみならず再軍備化に向けての動きもまさにそうだが、カネが政策を決定するにあたっての最大の動機であるというのは、この国が成熟していないばかりか、まともでは無い証である。

 敗戦という歴史的経験を共有するドイツやイタリアの脱原発政策と日本の原発推進政策は、見事に対照的である。この事実のみを取り出せば、まるで、ドイツとイタリアが原発のシヴィア・アクシデントを経験し、日本がそれと無縁であるかのようである。しかし事態は正反対である。原発政策の対照性は、危険性が散々言われる中で盛んに原発を建設してきたという、日本独特のあの後進性を未だ引きずっているがゆえなのか。それとも、この、先進性と関連付けて理解され得る後進性と見えたものは、実は日本が本源的に持っている永続的な遅滞性なのであり、それがこの対称性を導出しているのだろうか。そうであるならば、日本は永久に原発を捨てることは出来ないということになる。この国の政府が今の原発政策を採り続けるなら、遅かれ早かれ必ず第2の福島第一原発事故を引き起こすだろう。その際、不幸中の幸いで日本そのものが破滅を免れれば、また懲りずに原発を推進するかもしれない。しかし、日本そのものが破滅すればおしまいである。それを避け得るのが、脱原発の継続的な民意表明だと信じている。

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