「隠す」ということ

 福島第一原発事故の後、東電による情報隠蔽が次々と明るみに出て、国民の大反発を買った。この会社の隠蔽体質は今はじまったことではないし、それを許す風土が会社内部にあったことは容易に想像されるし、内部告発などによってそうしたことそのものも明るみに出てきている。

 最近では、検察庁の悪質な隠蔽体質が社会的に問題になったが、こうした体質は、政府や、政府と直接的、間接的に利権を通して結び付いた大企業には、非常にしばしば見られるものである。私の敬愛する、江戸中期の大坂で活躍した町人学者、富永仲基は、「隠す」ということを日本人の最も悪い性質として挙げている。平賀源内などにも見られるように、天才的な知識人というのは、たとえ封建時代であっても、権力者の睨みにめげず、国家や国民の負の性質をズバリ言うものだ。それは、「隠す」という性質にしても例外でない。

 それにしても、この性質は現代にいたるまでいささかも変わっていない。いや、さらに悪質化しているといえるだろう。現代では、権力を持った集団は利権を通じて関係機関と癒着したり、身内を庇ったりすることと「セット」で、隠蔽を巧妙化しているのだ。

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