吉田秀和氏の訃報に寄せて

 日本におけるクラシック音楽評論の分野を本格的に切り開き、築き上げて来られた吉田秀和氏が先日逝去した。氏の仕事の質と量、そして、それが芸術界全体に与えた影響の大きさと深さとを考えると、「一つの時代が終わった」という紋切型の形容を単なる比喩でなく、真実の言表として用いたくなる。

 私が氏の文章を読み、語りを聴くようになったのは中学生の頃である。批評そのものが作品たり得ていることにまず驚き、そして興奮したことを昨日のことのように思い出す。とりわけ、朝日新聞連載の「音楽展望」に象徴されるように、音楽以外の芸術ジャンル(美術、文学、歌舞伎など)にも越境し、論じる視野の広さとしなやかさには、面目躍如たるものがあった。こうした美学ないし姿勢には衒いが全くなかった。それは、音楽を理解するということは畢竟、芸術を理解するということであるという信念が、ごく自然に、ほとんど身体的にそなわっておられたからなのであろう(したがって、今、用いた「美学」という言葉ーこれすら暫定的な表現であるがーを「方法」とか「スタイル」とかいった言葉で代替したくはない。ましてや、「意識」などという言葉なんて!)。

 優れた芸術作品は、他者に新たな作品を創作せしめる。そして、それがまた、さらなる他者に新たな作品を創作せしめる。先日、堀江敏幸氏が朝日新聞上で書かれていた追悼の文章もまた、この偉大な創作者の作品群に寄せた一級の作品であると思わせるのに充分なものであった。堀江敏幸氏と同世代の文化人で、吉田秀和氏の仕事に深い理解を示し、丹念に追う作業を続けて来られた人は少ないのではないか。年齢的な大きな違いを超えて批評=作品、そして人間性に感動されている様子にまた、私も心動かされた。

 クラシックにせよポップスにせよ、音楽評論のスタイルやアプローチの方法は、この10年くらいの間に多様化しているように思う。そして、論評の際の音楽ジャンル間の越境はもとより、芸術ジャンル間の越境もさほど珍しくなくなってきているように思う。私は、そうした現代の音楽評論に目配りしつつも、吉田秀和氏の「大過去」の評論にも同時に目配りしていきたいと思っている。

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