市民による異議申し立てを強化するもの。


 自民党の石破茂幹事長がブログ上で、特定秘密保護法案に反対する市民のデモをテロと表現したことが問題となっている。テロ発言そのものはのちに撤回されたとはいえ、デモが本来あるべき民主主義の手法とは異なるという主張が引き続き行われている状態だ。さらに、どんな主義主張であれ、一般市民に畏怖の念、恐怖の念を与えてはならないとも述べている。しかし、これらの主張がもし正しいのであれば、以前問題となった、新大久保の反韓ヘイトスピーチ・デモの方こそ非難されて然るべきだろう。今回の問題以前の、石破氏の日頃の発言を念頭におきつつ今回の主張を検討すると、これらは戦略的でも悪意に満ちたものでもなく、ごく正直な思いの表れなのだろうと思う。特定秘密保護法案反対運動をめぐっては、ポストの有無に関わらず、自民党の他の議員からはこれほどまでに直截的な市民批判の言葉がかつて出てきた記憶は無いし、今後も出て来ることはそうそう無いのではないか。今回の石破氏の発言は、この法案に反対する市民勢力に対する自民党内の本音が最も明確に示されてしまったものだと思えてならない。この発言は-悪意は無いであろうにせよ-この法案が仮に成立した際の運用のされ方を試行するかのような構造を内包しているだけに、看過出来ないものである。しかし、それでも希望はあるように思う。


 ところでこの法案は、ツワネ原則から大きくかけ離れていることや、海外メディアの批判(それらの中には、日本がこの法案を検討するにあたり、その運用について研究した対象国であるアメリカのメディアも含まれる)、国連弁務官による懸念などからも、国際的な基準と比較して後進的であることが窺える。現政権が誕生してから、改憲論議に始まる一連の再軍備化への道は、戦後の日本がアメリカによって促された民主主義が確立しないうちに、戦前の道に後退してしまうことを意味している。日本は高度成長を経て経済的には豊かになり、高度な科学技術の恩恵を自給的に受けられるような水準にまで成長したが、周知のように政治的には未熟なままだった。ところが、遅まきながらもとりわけ3.11以降、さまざまな政策の問題点について市民が政府に直接物申すという民主主義的方法が力強く行使されるようになった。このことは、歴史的にはウルリッヒ・ベックらの言う再帰的近代の始まりが、欧米諸国から40年以上遅れつつも、勇気と良心のある市民によって花開こうとしていることを意味している点で、画期的なことなのである。然るに、政財界、特に政界は市民によるこの潮流、この歴史的な展開への呼応は鈍いように思える。脱原発運動は特にそうだが、市民による政府への異議申し立ては、今後もかなりの忍耐を強いられそうな気配である。石破氏の発言はその強度ゆえ、市民のそうした意志と力を萎えさせかねないように見えるが、実のところ、パラドクシカルながらもこうした発言が、件の法案の危険性を直視する新たな市民の誕生を促し、従前からこの法案に異議を唱える市民と併せ、政府が無視出来ないほどの勢力を構成させることになるのではないか、という気もするのである。この法案の問題のみならず、原発問題についても、政府の頑なさが逆に市民の異議申し立てを強化するチャンスをもたらしているとも言える、と最近考えている。再帰的近代化論で言うところのサブ政治を遅まきながらも実施するチャンスがあるのだ。私も引き続き、表現者の一人として、教育に携わる者の一人として、この法案に異議を唱えていきたい。表現者にとって表現の自由が担保されるべきであるのは言うまでも無いし、教育というのは未来を指向=思考することが求められるものであり、この法案はそれを封じかねない根を持っていると考えている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です