根深い日本の「変わらなさ」。


 参院選が終わり、改憲勢力が全議席の3分の2を超えてしまった。今回も繰り返された投票率の低さも非常に気になっている。戦争を肯定する国民などほとんどいないはずである。戦争は本当はすべきではない、「でも」、中国の脅威が迫っている・・・改憲派、なかんずく9条改正派のいつもの言辞である。積極的な改憲派でなくても、戦争は本当はすべきでない、「でも」、現憲法が時代と合わなくなってきている、などと言う人は少なくない。いや、実は、改憲には反対なのだが、経済成長を望むので自民党に投票するという人や、どうせ自民党が勝つに決まっているから投票しに行かない、という人の方がはるかに多いのだろう。自民党が推進する戦争への道に反対であっても、それが投票行動に結び付かないことに歯痒さを覚える。結局は、少なからぬ国民が、現状の政治を根本的に変えようとする強い意志とエネルギーを持っていないのだろう。であるからこそ、上に挙げたような「でも」という自己完結的な納得により、ピント外れな投票行動や投票権の棄権が横行するのだろうと言ったら、短絡的だろうか。この、変わらなさへの安住は想像以上に強固なのだと、今回の選挙で痛感させられた。市民革命を経験したことがなく、西欧近代と対峙しながらも、この150年の歴史の前半では近代化=軍国化、同じく後半では近代化=経済国化としてしか理解出来なかった日本という国の特殊性ゆえ、市民の政治への積極的な参加が当然の文化として育ってこなかったのだろう。そうした歴史のうえに日本人生来の「お上」意識が加わり、政治家はそんなに酷いことはしないだろうから黙って任せておこう、ということになるのだろう。経済先進国で唯一のこの民族病を矯正するには、相当の時間がかかるだろうが、やっていかなければならない。まともな立憲民主主義国になる為に。

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