男性/女性と科学技術、芸術。


 西洋(西欧)の合理主義、科学技術振興・信仰、進歩主義・・・等はみな、男性原理に基づくものである。西欧=男性/日本=女性、というさんざん使われてきた二項対立の図式に縛られたくはないが、少なくとも近代以前の日本は、女性原理で変遷してきた社会だといえるだろう(「発展」と呼ぶと、進歩史観に絡めとられてしまう)。それが、近代以降、特に20世紀後半には男性原理に傾倒することとなったわけである。


 男性原理は、畢竟、女性原理へのコンプレックスをその前提としている。それは端的に言って、出産能力(子孫生産能力)の欠如である。科学技術信仰はそれに根差している。


 ところで、私の専門である西洋音楽もまた、男性原理によって発展してきた典型的ジャンルである。しかし、この震災後の破壊された(正確には、破壊をみずから招いた)原子力発電所の無残な姿を見、国民にもたらされた荒涼とした心象風景を想像するにつけ、少なくとも職業技術としての芸術は、女性原理に基づくものなのではないか、と強く思うようになった。


 芸術が望まざる死や悲劇から遠ざける技術であろうことはもちろんのこと、科学技術の負の遺産による心的ストレスを癒すものであれば、それは、包容である女性原理が前提されているといえる(芸術は「社会の鎮静剤」だ)。過剰なる情報(ここでは、哲学的視座に立ち、物質も情報の一種とみなす)の洪水を鎮静化するわけだ。これが女性原理によるものでなくて何であろうか?


 これから日本社会は、鎮静化を図らなければならない。女性原理を意識的に採用し、文明の転換を目指さなくてはならない。脱原発もその一つである。反原発も脱原発も、主たる提唱者は女性であろう。今度の選挙を見据えて、女性である社民党の福島瑞穂氏のみが脱原発を明確に掲げているのは偶然ではない。

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