今日で、広島に原爆が投下されてから66年経つ。加えて、3.11以後に迎える初めての原爆投下の日でもある。しかし、被爆については多くの言が費やされているし、福島の被曝と突き合わせて考察するには私にとって重すぎるテーマなので、今回は措いておく。
さて、以前書いた通り、菅首相が浜岡原発の運転停止を決定してから(その後、それは実現し、現在は冷温停止に向けて準備中である訳だが)、原発をめぐる看過できない諸問題がより一層明るみになってきた。その動きは、とりわけ九電メール事件を機に加速した感がある。その結果、西欧各国などの脱原発先進国ほどではないにしても、脱原発を望む国民が多数を占めるようになったようである。ここでクローズアップされてきた興味深い点がある。それは、利権享受者以外で原発推進を求める国民が減少した結果、脱原発派と原発推進派の構図が事実上明確化してきたことである。換言すれば、原発推進の理由は明確に利権保持に限定されてきているということである。
もし、地震国日本で、あえて途方もないリスクを冒してまで原発を推進すべきとする根拠があるのであれば、それは傾聴すべきかもしれない。そして、ごく最近までは、脱原発派と原発推進派が議論をする余地が残されていたように「見えていた」ともいえる。しかし今や、既存メディアにしか触れない層を含め、誰の目にも原発推進派の本音が知られるようになり、原発容認派や「よく分からない派」の国民は相当に減っている。すなわち、原発のリスクを懸念し、日本の将来を本気で憂えて脱原発を訴える国民と、原発のリスクを矮小化して語り、脱原発の動きを抑え込む利権享受者の構図が明確にクローズアップされてきたといえる。前者の思考は科学的かつ人道的、後者の思考は非科学的かつ利己主義的といえる。もはや、良い意味でも悪い意味でも原発の是非を議論する前提が崩れ去ったという訳だ。このことを踏まえたうえで、脱原発についての思考と実践を深める時が来たと思う。