今、論理の破綻と書いたが、そもそも原発推進という態度は、あらゆる次元において合理的な論理の裏付けによって存在し得ないのだと言っても良いかもしれない。ごく単純化して言えば、前述の通り、「カネ」がその態度決定にあたっての唯一の動機なのだから。カネに惑わされる人間は、そもそも理によって動いていない。3.11以後、原発反対を訴える人々はセンティメントに支配されている、と評する向きがあったが、逆に彼ら原発推進を謳う人々こそが、大いに理を欠いているのだ。カネの為なら、白いものを黒いと言うことに何のためらいも無い。この国は今、有史以来の危機に瀕している。原発推進のみならず再軍備化に向けての動きもまさにそうだが、カネが政策を決定するにあたっての最大の動機であるというのは、この国が成熟していないばかりか、まともでは無い証である。
敗戦という歴史的経験を共有するドイツやイタリアの脱原発政策と日本の原発推進政策は、見事に対照的である。この事実のみを取り出せば、まるで、ドイツとイタリアが原発のシヴィア・アクシデントを経験し、日本がそれと無縁であるかのようである。しかし事態は正反対である。原発政策の対照性は、危険性が散々言われる中で盛んに原発を建設してきたという、日本独特のあの後進性を未だ引きずっているがゆえなのか。それとも、この、先進性と関連付けて理解され得る後進性と見えたものは、実は日本が本源的に持っている永続的な遅滞性なのであり、それがこの対称性を導出しているのだろうか。そうであるならば、日本は永久に原発を捨てることは出来ないということになる。この国の政府が今の原発政策を採り続けるなら、遅かれ早かれ必ず第2の福島第一原発事故を引き起こすだろう。その際、不幸中の幸いで日本そのものが破滅を免れれば、また懲りずに原発を推進するかもしれない。しかし、日本そのものが破滅すればおしまいである。それを避け得るのが、脱原発の継続的な民意表明だと信じている。