先般、ウェブサイトを3ヶ月ぶりに再開したことをNEWS & INFO.およびブログでお知らせさせていただいた。その際、ARCHIVESやWORKSについてはもちろん、LESSONについてもある程度加筆をし、PROFILEについては大幅に書き換える等、かなり手を入れることとなった。再開というよりは、新設したような気持ちである。一方、1年ぶりの更新となるブログにおいては、これまで主に原発問題について取り上げてきた。しかし、3.11から数年経ち、原発の問題点については社会的にさまざまな視角からの批判が浸透してきたこと、そして、私にとって指摘しておきたいことは大体尽くした気がしていたことから、だいぶ以前にこのテーマで書くことを徐々に減らすつもりである旨、予告もしていた。そこで今回は少し趣向を変えて、拙作についての文章を久し振りに載せようと思う。しかし、ここではやはり、原発問題なくしては誕生しなかった作品について触れたい。すなわち、3.11原発事故の発生によって作曲プランを変更することとなった、『砂丘で水流を見つける』(欧文タイトル:Trouver de l’eau dans la Dune)という、アルト・フルートのソロ曲についてである。2010年秋に着想したこの作品は、2011年春頃から着手し、発表する予定であった。しかし、作曲と発表は2017年秋まで持ち越しとなってしまった。具体的にプランを練りながらも、こんなにも作曲と発表が遅れてしまったことは初めてであった。その間の事情については、発表の際に演奏会場で配布されたプログラム・ノートの文章が全てを語り尽くしていると言って良い。したがって、それをそのまま転載させていただきたいと思う。なお、この作品は、2017年10月から12月にかけて、フルーティストである山根尊典氏によって、つくば、下関、小倉、東京にて相次いで演奏していただき、各都市にて好評をもって迎えられたのは幸いである。なお、プログラム・ノートはこれら4都市におけるに公演全てにおいて配布された。
●小森俊明作曲『砂丘で水流を見つける』について 小森俊明
フルーティストの山根尊典さんに拙作を演奏していただくのは、2012年にフルート・ソロ曲『凍れる衝動』を初演、再演していただいて以来である。作品というものは、作曲者自身による解説なくして聴いていただくのが自然なあり方だと私は考えている。しかし、今回の作品には着想から完成にいたるまで紆余曲折の前史があり、そのことがそのまま作品の内容に強く反映している。そこで今回は若干長くなるが、完成にいたるまでの前史と作品の内容について記述しておきたいと思う。
唐突であるが、私は何を隠そう、子どもの頃「川フェチ」であった。そんな訳で、転校した三重県(この県は川が非常に多い)の小学校で社会科と理科の自由研究で川について研究し、それぞれ賞をもらったこともあった(このことが原因の一つとなって嫉妬ゆえのいじめに遭うことになるのだが、ここでは措いておく)。小学生以来、川フェチ度はいくぶん下がり、大人になってからは更に下がった状態を維持していた・・川フェチの志向=嗜好が強く呼び覚まされたのは2010年の秋のことであった。
旅先の鳥取砂丘で、観光客がほとんど散策していない低地のエリアへ降りて行った私は、偶々小さな水流を見つけたのだった。それはまさに、小学生の時に研究・調査で何度となく訪れた川のミニチュア版のようであり、一種のオアシスであった。そして、静かで可愛らしい流れの両側をところどころ草が健気に彩り、さながら川の盆栽であった。帰京後、この印象をパンフルートのソロにより作品化すべく構想していたが、いつの間にか他の仕事に紛れてそのままになってしまっていた矢先に、あの東日本大震災と原発事故が起こったのであった。以後、私の作曲の多くはこの天災と人災に何らかの関わりがあるものに変質していった。その先駆を成すのが『東日本大震災に寄せる哀歌』である。水流にインスパイアされた作品で使用予定であった楽器、パンフルートがこの作品にふさわしいと考えて採用し、2011年秋に所沢でFusako Sidler さんのパンフルートと私のピアノ伴奏で初演したのだった。この作品はその後、スイスのチューリッヒ、バーゼル、ハームの3都市で再演され、新たに作ったピアノ・ソロ版は東京で初演された。その改訂版が仙台で初演、その後東京でも再演、更に改訂したものが東京で初演された。これらピアノ・ソロ版の演奏は全て作曲者自身によるものである。そして今夏、ヴァイオリニスト・ピアニストのユニット、Isomura Brothersの委嘱により、陸前高田の「奇跡の一本松」から作られたヴァイオリンを世界中のヴァイオリニストたちが弾き継ぎ、東北の復興を祈念するプロジェクトのニュージーランド版である、“Tsunami Violin concert tour”の為に、ヴァイオリン版を作ったのである。9月にこの作品が坂本龍一、伊福部昭、久石譲らの作品と一緒に、3.11直前に発生したニュージーランド地震と3.11の犠牲者への追悼と両地震からの復興を祈念して、オークランド、ウェリントン、クライストチャーチの3都市で初演、再演され、現地の人々から好評をもって迎えられたのは、作曲者にとって大変感慨深いことであった。
さて、砂丘の水流から受けた印象を作品化する構想に話を戻すと、率直に言って、3.11という歴史的な国難が収束しない中で、観光気分の延長のような作品を暢気に書くことに躊躇を感じていた。3.11の天災と人災に関するさまざまな作品の発表を経て、そろそろこのペンディング状態の構想を実現したいと思い始めたのは、今年のことである。その際、水流から受けた印象を作品化するだけではなく、3.11原発事故で汚染された水について、作品内部で言及せずにはおれないと痛感した。海洋と河川、地下水が汚染された地域から遠く隔たった鳥取の水も、地球レヴェルで考えれば繋がっている。地球環境問題から水を捉えた場合、「ある特定の地域の固有の水」という概念は狭小なものとなる。試行錯誤の上、以上のような思索をこの作品の中に取り込むことにした。そして使用する楽器についても、当初予定していたパンフルートよりも、アルト・フルートの音色の方がこの構想を実現するのにふさわしいと結論づけ、ようやく作曲にこぎつけることが出来た。そしてこの度、最も信頼出来るフルーティストである山根尊典さんに作品の演奏をお願いした次第である。
作品は3つの楽章より成る。最初の楽章では、砂丘を散策するうちに水流を見つけた時の感動、そして水流の様子を描いている。2つ目の楽章では、帰京後の水流の回想と、3.11原発事故による汚染水の発生と、そのことによる水そのものへの不安を表現している。最後の楽章では、原発事故による汚染水発生の回想と、文明の源としての水の重要性の考察、未来へ向けて安全な水が保持されることへの希求が表現されて終わる。そんな訳で、この作品は一種の標題音楽と称しても良いと思う。もとより、作曲者の思考が音化されるに際しては、当然のことながら抽象化を免れ得ないし、恣意的なものとならざるを得ない。聴き手のみなさまには、作曲者が水について考え、音化していったという事実を頭の片隅に置いておいていただくだけで幸いである。
なお、地球環境問題のレヴェルで水を考察し始めてから、昨年来一緒にアート活動をするようになった世界的なアース・アーティスト、池田一さんの著書とご本人からお伺いしたお話から大きな影響を受けた。池田さんに感謝申し上げます。そして何より、本日演奏して下さるフルーティスト、山根尊典さんとお聴き下さるみなさまに感謝申し上げます。
追記:アース・アーティスト、池田一氏のこれまでの業績と私とのコラボレーション活動については、後日ブログに記したい。