他のあらゆる科学技術と同様、原子力技術と原子力発電の技術もまた、西洋から学んだものである。デカルト以来、科学技術は西欧合理主義の価値観のもとで、ダーウィン的発展を遂げてきた。昨今、日本はモノづくりの国、職人の国と言われる。その通りである。昔から。一方、科学技術大国とも言われる。現在はその通りである。しかし、それはたかだかこの半世紀足らずのことにすぎない。国策として科学技術が奨励されたのは、明治維新以後にすぎない。こんな基本的なことは小学校で習うことだが、大人というのはどうも、現代の様相しか見たがらないようだ。
さて、原子力技術と原子力発電の技術は、1970年代に入ってから習得したといっていいだろう。これは当然、アメリカやフランス、ロシアなどよりも遅れている。しかし、今や世界的に見ても、いわゆる「先進国」の中で(本当は、日本は先進国とはいえない・・・このことについては稿を改めて書きたい)日本が最も原発の計画と建設を進めている国となっているのだ。こうしたプロセスを悲劇的に象徴するのが、チェルノブイリ原発事故、スリーマイル原発事故、福島原発事故というクロノロジーである。
全ての科学技術分野に観察される、西洋からの学習→習得→世界一の隆盛、という図式がここにも見られるうえに、その壊滅的破綻も実践してみせているわけである。また、ここまでの破綻ではなくても、世界一の隆盛ののちに負の副産物を多くもたらした事例を、われわれは既に見てきている。
このような破綻や負の副産物は、一つには、西洋の科学技術への根深いコンプレックスの反動としての自信過剰によってもたらされているのは確実だ。16年前の阪神大震災の際には、高速道路が無残に崩落した。震災前には、土木工学の専門家たちは、カリフォルニアの大地震で崩落した高速道路を見て、日本では絶対に起きない、と嘲笑していたのにも関わらずだ。今回の福島原発事故も、原発の専門家たちが日本の原発は世界一安全だと言ってきたのにも関わらず、起きてしまった。
こうしたシミュレーション/軌跡は、日本に特有な現象といえそうである。そもそも日本人は、科学的合理主義のDNAを持ち合わせていないだろうと思う。もちろん、日本人もまた、科学技術の恩恵にはさまざまな場面で浴している、というより、それなくしては生活が成り立たないのが現状だが、技術への過度の自信は厳に慎んでもらいたい。事故が起きてからでは遅すぎるのだ。万全の対策が求められる。
その為にも、日本人が外来技術としての科学技術をどのように摂取し、発展させてきたのか、そのはじまりの軌跡を謙虚に振り返り、慎重な管理のもとに謙虚に発展させなければならない。