10年近く前からだろうか、気候変動の影響により日本の四季は「二季」に変化しつつあると気付いた。筆者は中国人に似て、先行するシニフィエとしての現象に対して、シニフィアンとしての新語を与えないとが気が済まないタチであり、実際に「二季」と呼んでいたものだ。今朝、仕事の行き掛けに久し振りにテレビ朝日の「モーニングショー」を見ていたら、この新しい二字熟語が2025年の新語大賞か何かに選ばれていたというエピソードに言及されていて、今やそんなに人口に膾炙していたのだと、逆に世の中の趨勢から取り残されているかも知れないと思ったことだった。
さて、これまで日本人は、この国には美しい四季があると、それが他国に優越している証であると言わんばかりに誇らしげに語ってきたものである。四季折々の自然や植物の美しさには、たしかに日本らしさがあるかも知れない。しかし、四季という気象学的な移り変わり自体は別に特別なことでも何でもなく、多くの国と地域が持つ温帯の最大の特徴であるのは厳然たる科学的事実である。日本人の不健全なナショナリズムを支援する「四季」の崩壊が、日本における局地的な現象などではなく、世界的な現象となっていることは言うまでも無いだろう。ところで、「モーニングショー」で玉川徹氏は、知的エリートが鳴らす警鐘を一般人が正しく受け取って対策を取るか否かによって、社会は良くも悪くもなる、という内容のことを述べていて、しきりに首肯した。彼は、アジア太平洋戦争開戦前に、この国の知的エリートが集合した委員会が戦争必敗となることを科学的現地から結論付けたのにもかかわらず、政治家が屁理屈(=非科学的言辞)をくっ付けて開戦してしまい、あの結果を生んだことにも言及していた。流石、玉川氏である。要するに、地球沸騰化についても、気象学者たちが数十年にわたって警鐘を鳴らしてきたのにもかかわらず無策であったことは、あの開戦に対する無策と同質であったということなのだ。この2つの事象は政治と自然環境という、異なる領域の主題に関するものであるが、根源は同じであるという訳である。
繰り返しとなるが、気候変動に対するこの無策振りはグローバルな次元に及ぶものである。しかし、問題解決の方法が「知的エリート」(研究者、弁護士、医師等)によって具体的に提示されているのにもかかわらず、既得権益圏の死守と金儲け、意識の立ち遅れによって黙殺されることが常である日本にとっては、とりわけ危機的な状況であると言えよう。このことは、いくら強調してもしすぎることは無いだろう。何故なら、現代日本人にとってこれこそが最大の民族病なのだから。メディアを毎日賑わしているこの国の「無策問題」は環境問題のみならず、政治、司法、教育、エネルギー、防災、医療等をはじめ、あらゆる領域に及んでいる。ここでふと思い出したのが、昨日報じられた「チームみらい」の安野貴博氏による高市首相へのAIレクチャーである。そう、彼はこともあろうに上述の既得権益圏ー自民党政権の権力圏のーへの新規参入の仕草を隠そうとしないのだ。原子力ムラに見るように、既得権益圏というのは新規参入によって拡張を続けるものなのである。
蛇足であるが、筆者はそもそも「チームみらい」なる党名自体に大衆向けのサーヴィスが潜んでいることを、苦々しく思っている(このことが分かるひとびとは、党名の意図を「欺瞞」と表現するだろう)。ここで思い出すのが、四半世紀ほど前、伊藤キム氏が率いるコンテンポラリー・ダンス・カンパニー「輝く未来」の存在を知った時のことである。このカンパニー名は当然、皮肉であると直ぐに了解した。後から、伊藤キム氏ご本人が「輝く未来なんてある訳無いだろ」と吐き捨てるように呟いていたのを聞いたので、まさにこれは皮肉に由来する命名であると言える。「失われた30年」と言われるが、25年前でさえそうなのである。さて、安野氏は作家でもあるとのことなので、今の時代に「みらい」なる言葉が持つ捻じれとその長短さまざまな効用について知悉していないとは考えられない。彼は端的に言って、例えば参政党にすぐ飛び付くような、ある種の熱狂を孕みつつも同時に思考停止状態にあるひとびとをターゲットにしていると考えれば、合点が行く。