戦争を回避する道。


 改憲論議というのは今にはじまったことではなく、これまで政治家レヴェルでも民間レヴェルでもしばしば起こったことではあるが、今回ほど本格化し、実現性を帯びているのはかつてないことと言っていいだろう。そのタイミングの持つ政治史的意味と、改憲の実現に向けての着実さについては、前回のブログで示唆しておいた。かなり拙速と思える目下の改憲への動きを見ていると、どうしても明治日本の帝国主義への道と戦後日本の経済大国への道を連想せずにはいられない。拙かったかどうかは措いておくとしても、これら近現代日本の国家アイデンティティ形成への道が極めてスピーディーに開かれていったことは間違いない。


 私は、3.11原発震災から間もない頃、原発技術と関連させる形で日本の近代科学技術の摂取と挫折について書いたことがあった(ブログのタイトルは「遅れてきた国。」)。そこでは、日本での近代科学のはじまりの遅れと、西洋の科学技術に対するコンプレックスについて触れておいた。前回のブログに書いた、帝国主義への道と経済大国への道のうち、前者は科学技術の摂取が前提である為にコンプレックスを内包するものであったろうし、後者もまた、欧米(特にアメリカ)に追いつけ追い越せ、というスローガンのもとに邁進していったのは周知の事実である。私は、コンプレックスを持つことそのものや、それをスピーディーに克服しようとすることそのものが悪いことだったと言いたいのではない。目下の改憲の動きを見ていると、どうしてもその拙速さから、実効性のある軍事力を持たないことへのコンプレックスのようなものが、少なからぬ保守政治家の心の裡にあるのではないかと思えるのだ。しかし、今さら欧米の軍事力に対するコンプレックスでもあるまい。おそらく、それはコンプレックスというよりは、中国と韓国に対する対抗心や敵愾心の表れなのだろう。


 いくぶん迂回的になってしまったが、特に21世紀に入ってから現在の安倍政権にいたるまでの、保守政治家の中国と韓国に対する強権的な振る舞いと軍国主義への傾斜のメンタリティを考える際、私は、日本近現代史の2度の歴史的転回=展開を振り返らざるを得ないように思う。現今の再軍備化の原点ともいえる1度めの歴史的展開は国家の強権により行われたものである。その契機となったメンタリティは、果たして国民が共有するものだったのだろうか?そして、翻って現代において、保守政治家のメンタリティは国民が共有出来るものだろうか?そして、再軍備化に賛成なのだろうか?目下の改憲の動きに対しては、国民は立憲主義の思想のうえに監視し、強権の発動に備えておかなくてはならない。日本が戦争をすることを望む国民は少ないと思う。また、中国や韓国に敵愾心を持つ国民であっても、戦火を交えたいと考える人は少ないだろう。戦争をすることと戦争が可能であることのギャップは、戦争が不可能であることと戦争が可能であることのギャップよりはるかに小さいのだ。

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