ブログを、こうしたトピックで始めることになろうとは夢にも思わなかったものだ。
今回の原発震災については書きたいことが山ほどあるが、大事なことを何回かに分けて書いていきたい。まずは、人災としてのこの災害について。
福島第一原発の深甚な被害、そして、それをもたらした直接のエネルギーである地震と津波については、電力会社と政府から「想定外」という言葉を嫌というほど聞かされた。しかし、そうした事態が許されるわけでは決してない。メディアでは語られないことだが、そもそも、震災列島に原発を建設することじたいが原理的に間違いなのである。原発震災という用語は、30年以上前に東海地震の発生可能性を最初に指摘した、石橋克彦神戸大学教授(当時は助手)が用い始めたものだが、われわれの国では、氏が懸命かつ賢明に鳴らし続けた警鐘を無視し続けたのである。石橋教授が危険性を特に指摘したのは浜岡原発であるが、今回の原発震災は福島で起こった。だが、遠くない将来、首都圏から関西圏にかけての全域で、東海地震に発する浜岡原発のメルトダウン(炉心溶融)による放射能汚染が発生し、日本経済が完全に麻痺することすら予測されているのだ。
話を最初に戻すと、今回の一連の福島第一原発の被害とその深甚なる影響の根本的原因は、地震によるものでも津波によるものでもなく、国土の津々浦々(原発はその性質上、海岸に建設される)に被害地震が起きうるこの日本において、原発を建設してしまった失敗にあるのだ。そのことだけもってしても、今回の被害は人災である。そして、それは周知のように、建設と維持に莫大なコストを要するこの発電システムに群がる、電力会社と政府の利権が背景にある。これについては次回に少し触れる。そして、この危険な発電システムが国家プロジェクトとして推進されてきたことの意味について、おいおい文化的な見地から考察することとしたい。