高市政権批判の忌避に対する危惧

 第2次高市内閣がたった4ヶ月の第1次高市内閣の後に成立してから約1ヶ月が経つ。第1次から通算5ヶ月の間、高市首相は何一つ政治的成果を挙げていないし、今後は寧ろ、国民の生活と国富を毀損する政策ばかりに邁進していくことは織り込み済みである。にもかかわらず予想を遥かに上回る驚異的な高市政権支持が継続している理由について、識者からさまざまな見解が示されている。そこで言及される象徴的な事象として、意外且つ目新しい支持者層として、高市首相の前向きで力強い発言に好感を持つ若者の存在が指摘されていることが挙げられる。彼ら/彼女らはまさに、前回のブログで記した、「何となく日本を変えてくれそうであるなどと錯覚して投票するような政治的ナイーヴさ」を最も具えた層であると言える。いや、何となくでどころか、「間違いなく」日本を変えてくれそうであると「確信」してさえいるのかも知れない。もしそうであれば政治知識と想像力の欠如に空恐ろしくなる。
 もう一点、高市政権に対するリベラルの市民層やリベラル野党(共産党、社民党、れいわ新撰組)の批判を、悪口であると歪曲する識者やメディア記者が現れていることに、大きな違和感を覚える(例えば哲学者の東浩紀氏など)。彼らに批判と悪口の相違が理解出来ぬはずが無いことを考えれば、極めて悪質であるとさえ言えるだろう。危惧するのは、高市政権への批判=悪口であり、苛めの矢面に立たされている高市首相は可哀相であるという情緒的反応を見せる一般市民が増えることである。筆者が知らぬだけで、もう既に増えているのかも知れない。約9年前、現在の自民党を支持することは政治的に間違いであるとブログに記した。安倍政権を継承し、「アップグレード」しようとする高市政権下において、その誤謬性は当然のことながら変わらない。こうした認識にまで至らなくとも、高市政権に対する立ち位置以前の問題として、政治学的、法学的に見てこの政権が批判されるべき政治的誤謬に満ちていることそのものは否定出来ないだろう。高市政権を批判することそのものを忌避する空気が日本全体を覆うようになれば、この国に欠けている民主主義を醸成しようという話どころでは無い。この国では、多くの国民のみならずメディアもまたほとんど、政権批判をしてこなかった。これは欧米諸国では考えられない現象である。上述した高市政権批判への実質的な批判についてメディアが沈黙を続け、あまつさえ加担するようになれば、最終的に最も辛酸を舐めることになるのは国民である。そうならぬことを切に願う。

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