ここのところ、原発が内包する破滅的危険性と、政財官学が強固に築き上げてきた利権構造の実態について、在来メディアが積極的に取り上げるようになってきた。東京新聞をはじめとするいくつかの新聞、そして、一般週刊誌等が主なところである。原発事故後、こうした動きはインターネットとSNSが担ってきたものだ。在来メディアのこのような変節の背景については、横須賀基地の安全性を確保しようとする米国の外圧により、菅総理が浜岡原発の停止要請を行った(であろう)ことと含めて、内田樹氏が意義深い論を述べている。その内容についてはここでは触れないが、氏の指摘はやはり正確であろうと判断するしかない。しかし、私がここで強調したいのはそのことではなく、原発事故以来、世論が脱原発に傾倒するような論調を意識的に避けてきた在来メディアの姿勢が、理由は何であれ急速に変わりつつあることへの率直な喜び、そして、こうして明らかになってきた原発推進の錯誤性を、もはや国民が直視せざるを得なくなったという、厳然たる事実である。
実際、原発事故が起きて間もなく私が書いてきた事柄は、今や冷静な眼を持った日本人であれば誰もが知るところとなった。3・11以前には、一部の日本人しか知らなかった原発の危険性と利権構造は、フクシマの厄の後、2ヶ月弱くらいで誰の目にも明らかになったのだ。もちろん、いわゆる原子力ムラの「村民」をはじめ、頑なに原発の安全性と必要性を喧伝し、反原発世論の動きを封じ込もうとする利権関係者は、まだまだ無数に存在する。こうした人々の如何に対抗し得るかに、反原発派の腕がかかっている。危険な原発の象徴として語られる浜岡原発以外にも、大地震に襲われたらたちまち周辺が放射能汚染地域と化す原発が全国にひしめいている。浜岡さえ停まっていれば安全などとは言えないのは、誰の目にも明らかとなった。また、言うまでもなく、全国で原発が稼働している以上、そこに利権は保持されており、それは原発廃炉の日まで続くのである。
それにしても、フクシマの事故が起こらなければ、これら原発の「不都合な真実」は明らかにならなかったことも、非常に残念なことながら事実であろう。そのことの情けなさ、やるせなさが日々覆うこの頃だ。