今、意見が対立しているこの件が見せる構図は、権力者が誤った科学的知見(それが承知であろうとなかろうと)によって市民に身体的・精神的被害を強制することと、市民がそれを無批判かつ積極的に受け入れること、そして、それに別の層の市民が(恐らく)科学的見地から反対する、ということになる。そして、この構図は、これまでに権力者と住民が展開してきたポスト3.11の言説の様相には見られなかった明晰さを持っているように思えてならない。これまでのケースにおいては、「食べて応援」にしても、「放射能を少しくらい浴びても大丈夫だろう」にしても、市民に身体的・精神的負担を積極的に負わせようとするかのような施策と言説を発信する権力者の動向と関係なく、市民がみずから進んで身体的負担を引き受けようとするかのような言説と実践が見られたと評してよい。もちろん、そうした権力者や市民の動向に違和感を持ち、科学的見地から、被曝を軽減する対策を自己ないし他者の為に施した市民層も存在してはいた。しかし、これら3者の間には、瓦礫処理をめぐる問題とは異なり、さほどコミュニケーションが存在していなかったと評せるように思う。これら3者はいわば、それぞれの立場で主張を行いはするが、少なくともイデオロギー対立と言ってもよいような様相は見せていなかったと思う。これは、瓦礫処理の問題が2極間で先鋭化している現状があるので、初めて相対的に気付くことが出来る事柄であるように思える。
これから、放射性物質との長い闘いが始まる。これは瓦礫処理に限ったことでは無い。それら一つ一つのケースにおいて、上記のケースと同様の激しい対立が起きることも少なくないだろう。そのいずれもが、市民にとって最もリスクの少ない方法の選択であるべきだ。