「教授」の逝去を悼む

 「教授」(坂本龍一)が逝去してから二週間以上経つが、インターネット・メディアを中心に、その音楽的業績と政治・社会に関する活動の足跡について盛んに記事が書かれている。名実ともに20〜21世紀の日本を代表する世界的アーティストであることを、一(いち)ファンであるという立場以前に改めて認識せざるを得ない現象である。同時に、音楽の領域においては同じくYMOのメンバーであった高橋幸宏に次ぐ、世界的な日本人ミュージシャンの逝去であり、政治・社会活動においては大江健三郎に次ぐ、世界的な日本人芸術家の逝去であったということもまた、再認識するものである。

 坂本龍一が「教授」と呼ばれているのは、その学歴と音楽知識の膨大さによるとされているが、まず何よりも、音楽に関する姿勢の総体の巨大さがそうさせているように思えてならない。氏はまず作曲家であり演奏家であるが、前者としてはまずもって完全なるアルティザンであり、10代のうちに蓄積されたクラシックの作曲技術を基礎に現代音楽、ポップス、テクノ、ロック、ジャズ、フュージョン、アンビエント、エレクトロニカ、西洋古楽、伝統邦楽、沖縄民謡、ボサ・ノヴァ、カリビアン・ミュージック、アフリカン・ミュージック等々、膨大なジャンル/スタイルの作曲法を手中に収め、自身の音楽的個性と調和させて来た。こうした作曲家としての在りようは、地理的にも歴史的にもポスト・モダン的であるとも言えるが、本源的には、そうした歴史的・思想的文脈を措定する以前の氏の音楽的嗜好=思考がごく自然に発露したものだと言えるだろう。そして、さまざまなジャンル/スタイルの試みは、美学的には戦略的な、そして思考的にはいわば弁証法的な経路を辿って行われたのではなく、そのときどきの関心の赴くままに行われて来たところに、天才である所以がある。この戦略性の欠如に、筆者はかねてから最高の「カッコ良さ」を感じて来たものだ。一方、演奏家として、つまりキーボーディスト/ピアニストとしての腕前も一流であるが、テクニック至上主義とは異なる演奏の在りように人間臭さを感じて来たものだ。そして、作曲家としての個性と作曲技術の在処がそのまま演奏に反映されているところに、大いに魅力を感じる。ヴォーカルの技術にはやや疑問符が付くが(?)、「教授」節は充分に感じられたものである。

 話は戻るが、教授が若くしてモノにしたアカデミックな作曲技術、つまりクラシック音楽の作曲技術は、和声的にもオーケストレーション的にも随所に反映されている。したがって、こうした鍛錬を特段経ていないほとんどのミュージシャンの楽曲にも、また、経てはいるもののそれを通常運転の仕事で発揮はしていない現代音楽作曲家の楽曲にも見出せない、優れた音楽的豊穣さが生まれることとなる。とりわけそれは、メロディーとコード・プログレッションのコンビネーションに顕著に見出される。端的に言えば、メロディーはポップス的であっても、コード・プログレッションは西洋近代音楽的であるケースがそこかしこに見出されるのである。それも無理やりそれらをコンバインさせているのではなく、あたかも最初から一体のものであったかのようにコンバインさせているところに、天分を感じるのであり、誰でも簡単に真似が出来るものでは無いことは、プロの作曲家の眼から見て明らかである。氏は藝大在学時代に前衛的な楽曲も作っていたものの、現代音楽に未来は無いとしてこの領域に関わることをやめてしまったことと考え合わせると、こうした作曲の在り方には興味深いものがある。その一方で、現代音楽に見られる無調による前衛的な作曲技法も時に用いることがある。これはクラシック畑の作曲家で言えば、通常運転では調性音楽を作ってはいるものの、楽曲中のある種の効果の為に無調を局所的に用いるバーンスタインの作曲姿勢に一脈通じるところがある。

 坂本龍一の音楽外的な活動としては、先述した政治・社会に関わるものが常に注目されて来た。反戦平和(地雷撤去を含む)、脱原発、環境保護はその代表的なフィールドであり、テーマである。筆者は、氏が東京からニューヨークに居を移したのは当地が世界的な音楽の中心地であるからであると、当たり前のように理解していたのだが、実は政治的発言が原因で日本国内の仕事が減ってしまったからであると氏自身が語っていた事実を、氏の逝去後に初めて知り大変驚いた。彼ほどの世界的アーティストであれば、政治的発言が仕事に影響するなど想像することすら出来ず、この国の政財界の闇が深いことを痛感せざるを得ない。世界的人物であるからその活動や仕事ぶりに対して批判を控えるというのは愚かなことであるが、オンラインの領域に跋扈する、氏の政治的発言に対する批判的な文言は筋違いも甚だしい愚かさを露呈していた。氏の政治的発言に対する姿勢もまた、この国における知性と思考力の分水嶺となり得る踏み絵であるのに違いない。そして、その踏み絵を提供することに躊躇する表現者に与しない氏に対して、大いなる共感と尊敬の念を覚えるのだ。筆者が活動拠点とする現代音楽の領域において、政治的発言を躊躇しない作曲家がどれほど居るのだろうか。池辺晋一郎氏などはその筆頭に挙げられるだろう。そう言えば、ともに新宿高校出身である坂本龍一も池辺晋一郎も、膨大な知識と教養を身に着けたうえでその活用の仕方を心得た、真の知識人と言える数少ない日本人作曲家であるのだ。

 

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