日本の分水嶺を目の当たりにして

 今、6日の出来事ーこれを仮に12.6.と呼びたいーを機に、3.11.原発震災以降の日本政治の動向と、その歴史的意味について改めて考えている。振り返れば、このブログ(というよりもウェブサイトそのもの)を開設したのは3.11.直前のことだった。私はブログでは主に音楽を中心に芸術について書こうと考えていた。しかし、過去のブログをご覧になっていただければ分かる通り、ほとんど原発問題と再軍備化をめぐる問題について書いて現在に至っている。音楽家であれば主に音楽について書くのが普通だろうし、おそらく、ブログを開設している音楽家、特にいわゆる芸術音楽を中心に活動している作曲家のなかで、私のようにほとんど政治に関すること、なかんずく原発に関することばかり書いている人は稀といって良いだろう。誰に頼まれた訳でも無いし、こうしたスタンスに何らかのネガティヴな評価をされているかたがおられると容易に想像出来るのにも関わらず、このようなスタンスを維持しているのは何故だろうかと、我ながら考えることもある。いろいろと考えたすえ、まず、このブログの最大の問題点は、原発問題ばかりについて書いていることもさることながら、おそらく、「それ以外についてほとんど何も書いていない、特に、音楽についてほとんど何も書いていない」ということなのだという結論に落ち着く。そしていつの間にやらそんな思い巡らしじたいを忘れてしまう。肝心の、音楽について書かない理由については、仕事やコンサートなどで音楽には充分向き合っているのだし、原発問題について書かずに自身の専門分野について書くことが随分と呑気な気がして一種の罪悪感を覚えるからだという、曖昧な感覚しか自身のなかに見出せないのだ。(もちろん、こうした感覚はあくまでも自分自身に由来し、他者の感覚とは一切交わり得ないものであり、決して、ブログで自身の専門分野について書かれている多くのかたがたに対して偏見を持っている訳ではない)。翻って原発問題について書くにあたっては、日本の将来が希望に満ちたものであって欲しいという感覚は常に意識の根底にあるし、次世代の子どもたちに安全な日本を渡していきたいという思いは、職業柄も後押ししてかなり強いようだ。

 さて、随分と脱線してしまったが、3.11.原発震災が、何世代にもわたる将来の日本国民の安全の在り方について抜本的に考えなければならない契機となったのはもちろんのこと、原発に対する異議申し立ての手法を通じて日本の民主主義の在り方そのものについて、日本人が熟考していかなければならない契機となったことは、疑いの無い事実である。3.11.原発震災にせよ、12.6.にせよ、それらが引き起こされるに至るまでの日本の歴史的過程とそこで見出される通奏低音の如きエートスについて、よく考える必要があると思う。無論、ひとくちによく考えると言っても、どの程度の深さにおいて考えるのか、エートスの意味するところの射程をどのようにするのか、そして、それがある程度定位されたところで、その器への具体的な歴史的事象の貼り付けにあたって不可避な恣意的判断を如何に調整するかという問題もある(このブログでは、以前、政治的判断と民族性の関係についてごく軽く言及したことがあったが、これは国家のエートスの問題とも関わってくるものだ)。この問題に拘泥するのは、日本という国家が、政治的に本来目指すべき道から逸脱し、失敗したあの戦争と同様のことが、今まさに反省なしに起ころうとしているからにほかならない。とにかく難しい問題である。さしあたっては、前回のブログで言及した日本の特殊性-経済的、科学技術的には大きく発展したが、政治的には未熟な状態-を再確認するに留めたいが、同時に、そのことに補足と提言をそれぞれ一つばかりしておきたい。

 まず補足事項から。この特殊性が自由主義国でほぼ唯一ということ、つまりほぼ世界で唯一であるということだ、政治的未熟は技術論的な水準においてはもちろんではあるが、国家百年の計から見た問題は、むしろそれを支える思想的基盤が脆弱であるということと、それと関連して、基本的人権をはじめとする国民の人権の担保がなされていないということに代表される。その根本にあるのは、国民の為に国家が存在するのではなく、国家の為に国民が存在するという発想ではないか。この発想は、例えば国家主義という用語で説明されるイデオロギー的現象というよりはむしろ、日本という国家(政府)がアプリオリに持っている(というよりは、近代の国民国家成立以前の長い封建制時代を経て染み付いてしまっている)、それこそエートスであるように思える。しかし、これは必ずや克服されなければならない。

 次に提言事項について。上に書いた問題は国内政治の水準に留まるように思えるし、国家重視の姿勢を端的に表現している特定秘密保護法の成立に際して国際的な非難が相次いだものの、各国とも内政干渉は避けている様相であるのは事実である(実際、日本政府はそれら批判に対し、聞く耳を持っていない)。しかし、政治的には未熟ではあれ、中国にGDPを追い抜かれたとはいえ、当然のことながら世界あるいは国際関係における経済的なプレゼンスは依然として大きいし、科学技術面において世界に貢献出来る分野は数多い。そのような国が、国内政治において国民軽視の姿勢を取り続けていて良いものだろうか。今の日本の国家としての在りようはあまりにもバランスを欠いている。他のOECD加盟国(先進国)と同様、国民あっての国家という明確な国の在りようを実践し、名実とともに民主主義を樹立してはじめて国際的な信頼を得るのではないか。幸い、現在のところ、憲法第9条に則った非戦状態の保持が日本の信頼を勝ち得ている。特定秘密保護法の施行は、非核三原則の見直しの作業とリンクして覇権主義の端緒を開き、中国を筆頭に国際的な非難を浴びることになろうが、同時に、この法律が強化する国民監視のシステムもまた、国際的な信頼を損うだろう。道のりは遠いが、日本が民主主義を樹立出来た状態こそが、日本が自由主義の大国としての本来あるべき姿である。これじたいは何ら特別なことでは無いが、これまでの日本の政治的紆余曲折を知る世界の国々はこれを大いに歓迎し、その道のりを労うだろう。是非とも実現して欲しいが、それを道のりを後押しするのが、市民による適切な投票行動であり、粘り強い異議申し立てにほかならない。
 

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