8月8日の「茨木のり子」公演における出演辞退について(2)

(1)より続く

 今回、実行委員長とやり取りをしている間、大変な徒労感を覚えた。新たなリスク・フェーズに対する理解が皆無であり、何が何でも予定通りの開催に拘泥されていたからである。加えて、出演者全員のコンセンサスを得てリスク・マネジメントを適切に行おうとする姿勢は皆無であった。専門家の提言の受け売りにはなるものの、現時点で市民が取るべき科学的判断の根拠とその運用の必要性について事細かに申し上げても、粗雑かつ的外れなご回答に終始するばかりであり、挙句の果てには、自分の力を信じて乗り越えましょうなどとという精神論まで飛び出す始末であった。そのようなプロセスにおいて、茨木のり子さんの思想を多くのかたがたとの間で分かち合うのに不可欠な信頼関係が損なわれてしまったと感じたこともまた、出演辞退の申し入れを後押しさせた副次的理由である。
 
 ここまで出演辞退に至る顛末をくどくどと述べて来たが、それは何も実行委員長を非難することが目的ではない。コロナ・ピリオドに突入してから、予定された公演に出演するか否か、あるいは公演そのものを延期あるいは中止にするのかについての議論は、世界中で行われて来ているのである。それら議論の中心となるのは言うまでもなく、コロナウィルスのリスクをめぐる評価にほかならない。そしてそれこそがまさに、公演に関係するひとびとのリスク観を反映して議論が複雑化し、時には鋭い対立さえ生むのである。しかも鋭い対立なるものは、実はもはや公演とは無関係な平時においても、いつ何時それが可視化され、あるいは顕在化されても不思議ではない強度のマグマとして潜在していることを、われわれは既に知ってしまっているのである。このことはわれわれアーティストの間のみならず、あらゆる職種、立場のひとびとの間においてそうなのだ。しかし、ここではさしあたり例示の範囲をリベラリストの間における新たな政治的分断の局面に限定しておこう(件の実行委員長もまた、筋金入りのリベラリストである)。最も極端な例として上げられるのは、コロナウィルスはそもそも存在しないとするひとびとである。しかし、このような主張をするひとびとの中にはいわゆる陰謀論を信じている集団が含まれることを持ち出すまでもなく、科学的実態/実体を一切捨象した主張であるので、ここでは措いておくしかない。コロナウィルス観は言わばスペクトラム状に存在するものであるが、コロナ観をめぐる当事者同士の議論を厄介にさせるゾーンの一つが、コロナウィルスのリスクを承知しつつそれを前景化させずに行動するひとびとである。前景化させない理由はリスクを恐れているのか、あるいは大して恐れていないのか、定かではない。政治上の問題を国内に限れば、コロナウィルス感染症対策を全然適切に行えていない菅政権に対して批判の声を上げるのは、リベラリストが多いようである。しかし、個人的な経験により知った、ウィルスを前景化させないひとびとの中にリベラリストもまた少なくないという実態には、大変考えさせられるものがある。実のところ、今仮にゾーニングしたこの層のリベラリスト(たち)と、コロナウィルスのリスクを最大限恐れるリベラリスト(たち)との間で政治的分断-それは精神的分断をも伴うものである-がより深まっていると、最近つくづく思うのである。勿論これは現時点における仮定にすぎず、リベラリストの間でも見解は分かれるかも知れない。この仮定が提出する諸問題は当事者間において、良く言えば白黒付けられぬ心の機微、悪く言えば相手を強く傷付けかねない刺々しさを含んでおり、ここではこれ以上深掘りすることを避けたい。しかし今回の出演辞退に至るプロセスを機に、今後折に触れて考えて行かざるを得ない悩み多き問題であると認識している。

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